Gab es auch in China Samurais?
ドイツ人「中国にもサムライっていたの?」外国人「お前、何言ってるんだ?」ドイツの反応
maximilian283_A_Japanese_samurai_marrie
あなたは侍なの?

ttps://www.gutefrage.net/frage/gab-es-auch-in-china-samurais
ttps://www.quora.com/What-is-a-Chinese-samurai-called
ttps://www.reddit.com/r/history/comments/abdszj/did_china_have_a_form_of_warrior_equivalent_to_a/?rdt=59664

質問:中国にもサムライはいたの?

ドイツ人・外国人の回答

Bajun

侍は古代日本の武士階級だぞ。

確かに日本人は漢語、禅宗、庭園芸術など、多くのものを中国から取り入れた。

だが、侍はその中には入っていない。

侍の封建関係や仕官関係は、中国軍の兵士とはまったく異なっていたんだ。

中国兵は、支配的な中央権力者である皇帝に従順であり、下士官階級、将校階級、将軍階級と階級が決まっていた。

一方、戦国時代の侍たちは、多かれ少なかれ、足軽部隊に支えられた部隊の中の一人の戦士として封建領主に仕えていたため、戦闘構造や組織が中国兵とはまったく異なっていた。

その結果、武士道というまったく異なる独自の戦闘規範が生まれ、日本のチェス盤の上に立つ一個人としての武士の生き方を規定することになった。

中国人は侍に相当するものを必要としなかったし、持っていなかった。


verreisterNutzer

興味あったからウィキペディアで調べてみた。

侍は中国の軍隊をモデルにしたもので、戦闘能力のある成人男子、だいたい日本人口の3分の1で構成されていた。

なお、侍たちは自分の武器や物資の代金を支払わなければならなかった」

したがって、侍のモデルは中国から来たが、俺たちの知る侍はMade in JapanでありOnly in Japanだ

侍は日本の武士階級の一つで、基本的に日本にしか存在しなかった。




Sean Landy

日本人は侍を「サムライ」とは呼ばない。

日本で侍は「武士」と呼ばれているからだ。

そしてこれは中国語で 「紳士的な戦士 」を意味する。

つまり、
中国にとっての「サムライ 」は単に「紳士的な戦士」を意味している。

そういう意味で、中国では紀元前220年以前からサムライは人気があった。

ただし、秦の始皇帝はよく訓練された国民軍によってサムライを皆ゴ□しにしたが。


Matthew Tabor

他の人がすでに正しい回答をしているけど、サムライは日本以外には存在しない階級制度だから、中国には存在しない。

我々西洋人がサムライと同じようなロマンを抱く中国の武術家を探しているなら、私が思いつく最も近い例は少林寺の僧侶だろう。

しかし、確かに少林寺の僧侶たちは現在では非常に商業化されているものの、サムライとは違って、彼らは現在でも中国に存在している。

また、サムライと違って、少林拳は自己防衛と自分の寺を守るための拳法だった。

少林寺の僧侶は、サムライのように上位階級に年中奉公するわけでもなく、サムライのように生まれながらにして階級に縛られるわけでもない。


Skookum_J

まぁ、中国の歴史は長いからな、そう簡単には説明できない。

青銅器時代のずっと昔、封建時代の騎士や侍のような働きをする下級貴族の階級、士がいた。

士は社会階級であり、騎士道に似た行動規範を公言し、軍隊の中核と打撃の武器として機能した。

しかし、戦国時代になると、士はほとんど取って代わられた。

この間、多くの社会構造が覆された。

士が担っていた軍事的役割は、職業軍人や傭兵に取って代わられた。

つまり士は貴族に近い役割を担うようになり、学問や文化により重点を置くようになったのだ。

戦国時代を経て、秦と漢は専門的で中央集権的な軍事システムを組織した。

ローマ軍を思い浮かべれば簡単に想像できるだろう。

軍隊と将軍は国家と皇帝に報告した。

プロの兵士はいたが、兵士階級はなかった。

その後、帝国が崩壊すると、遂に軍人の階級構造に変革が起きる。

こうして、軍や領主に仕える伝統のある家は、一定の人数を提供し続けることを求められた。

やがてこれがシビング制度となり、男性は終身徴兵され、高齢になったり怪我をしたりすると、その息子たちが代わりに徴兵されるようになった。

しかし、この制度は軍隊に人員を供給すること以上に重要なものだった。

軍隊の訓練、艤装、組織は、封建時代のヨーロッパで見られたような、より中央集権的なものだった。

三国時代を経て、富国強兵制度が注目されるようになる。

この制度では、植民地が設置され、各地域に人員が割り当てられた。

土地と引き換えに、これらの家族の男性は民兵の義務に出頭した。

徴兵された者は、毎年決められた月数、決められた年数の間、兵役に就くことが義務づけられた。

唐の時代になると、それまで分権的だった府兵制度が中央の権威のもとに組織された。

そして、それまでの漢と同じように中央常備軍が整備された。

兵士は帝国中から徴集され、統一試験に合格した学者官僚が指揮を執った。

その後、帝国は再び崩壊し、軍事構造は再び細分化され、より地域化された世襲制になった。

さまざまな将軍や軍閥が立ち上がり、各地を支配し、彼らの権力と地位は再び世襲制となった。

これらの世襲兵士の中には騎士に似た小貴族もいたが、多くは地元の支配者に人手を提供する世襲義務を負う家柄に過ぎなかった。

この時代には傭兵の利用も激増した。

まぁ、こんな感じかな。

中央の権威が強いときは、中国は各地から徴兵され訓練されたプロの兵士たちによる中央集権的な常備軍を設置しようとした。

しかし、中央の権威が弱くなると、一般的には地方に根ざした世襲的な軍隊構造に分解していった。

これらの世襲軍人の中には、私たちが騎士と呼ぶものに近いものもあるが、徴兵制のようなものもあった。






記事:クニッゲ

和魂洋才。

これからも日本人であることを忘れず、ドイツという地で戦っていこう。


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